悪夢の1995年シーズン、首位に36ゲーム差で最下位に

悪夢の1995年シーズン、首位に36ゲーム差で最下位に

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一度狂った歯車は、シーズン終了まで2度と噛み合うことはありませんでした。1995年シーズンのタイガースは主力選手が次々と離脱、中村監督が途中休養と、まったくいいところなくダントツの最下位に沈んだのです。すぐ隣で「がんばろう神戸」を掲げて優勝したブルーウェーブが眩しく見えたシーズンでした。

「なんせ投げたかった…」登板ゼロで阪神に解雇された山沖之彦の無念【平成球界裏面史】
スポーツ報知より)

【平成球界裏面史 阪神山沖編】
平成7年(1995年)の阪神は、中村勝広監督が6年目の指揮を執った。92年に2位に躍進して以降はBクラスが続き、FAでオリックスから山沖之彦を獲得するなど巻き返しが期待された。しかし、頼みの山沖は春のキャンプから肩の違和感を訴え、リハビリに専念。亀山、グレン、新庄らもケガで離脱し、戦力が整わなかった。オマリーをヤクルトに放出して獲得した新助っ人のクールボーもふるわず、リリーフ陣も踏ん張れない試合が続いた。

 開幕から5連敗を喫するなど大苦戦が続き、7月の球宴前のヤクルト、巨人、広島を迎えての甲子園9連戦を0勝8敗、1中止、うち完封負けが6度という惨状…。7月17日に早々に自力優勝の可能性が消えると、総帥の久万オーナーから「彼の采配はスカタンですな」とまでコキ下ろされた。この発言がきっかけにもなり、中村監督は同23日にシーズン途中での休養を発表した。

 低迷脱却の救世主とされながらまさかの登板ゼロに終わった山沖は当時を振り返り「せっかくセ・リーグの人気球団に入って人生を変えるチャンスと思っていたのに…一番悔いが残りますね」と悔しい思いを口にする。1月17日に阪神・淡路大震災が発生し、自主トレがままらない状態でキャンプイン。早々に右肩が抜ける違和感を覚え、徐々に痛みに変わっていった。医者に行くと「右肩の腱板が擦り切れてありません」と言われた。それでも前年にオリックスで21試合に投げており「何とかなるはずだ」の一心でリハビリを続けた。

「いつ投げれるかわからない。痛みさえなくなれば何とかしたる、と思っていた。来年のことを考えるのが一番つらかったかな。来年どうなるんだろうって。一軍は低迷して中村監督が途中休養されて…。責任を感じていました。なんせ投げたかった。ファンのためじゃなくてね。ファンからのヤジも気にならなかったし、そんなに聞こえてこなかった。僕は自分自身のためにやっていた」

 阪急時代に最多勝、最優秀救援賞を獲得した112勝右腕は、新天地で〝契約金泥棒〟とヤユされ、一軍登板のないままにオフに解雇。そのまま引退となった。後年、中村監督から「おれをクビにしたのはこいつや」と冗談で言われたという。

 その年の阪神は休養した中村監督に変わって〝鬼平〟こと藤田平二軍監督が代理監督として後半戦から指揮を執るが、新庄との確執が取りざたされるなど壊れた歯車は元に戻らず、首位ヤクルトに36ゲーム差をつけられての最下位。ヤクルトは阪神が放出したオマリーの大活躍で日本一に輝き、オフには新庄の引退騒動も起きるなど赤っ恥が重なった。同じく被災したオリックスは「がんばろう神戸」の旗印のもとでパ・リーグ制覇し、被災地を勇気づけるドラマを演じた。あまりのコントラストとなり、阪神にはまさに受難の1年だった。

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