優勝という大目標を課せられたプロ球団チームの監督には、1年中壮絶なプレッシャーが付き纏っています。2008年シーズン、序盤の快進撃から一転、最後は巨人に捲られて逆転優勝を攫われたのは悪夢のような出来事でした。
阪神岡田監督がファンの野次に激怒「誰に向かって言っとんねん!」歴史的な失速で「Vやねん」事件も…15年前、第1次岡田時代はこうして終わった
(Number Webより)
阪神タイガースは1985年、球団史上初にして唯一の日本一を果たした。あれから38年……いよいよ日本一に王手をかけた。
今年流行語になった岡田彰布監督の「アレ」。じつはオリックス時代に使い始めた「アレ」がなぜ阪神で流行ったのか? ここでは、阪神ファンがトラウマになった“まさかの失速”4選をたどっていく。2回目は2008年編。
2008年“大失速”はこうして始まった
2008年のシーズン前、阪神監督に就いて5年目の岡田彰布は、このときのチームにはその3年前に優勝したときほどの戦力はなかったので、まず補強で整備することにし、FAで広島から新井貴浩を獲得、さらにトレードでオリックスから平野恵一が加入した。投手陣は、ジェフ・ウィリアムズ、藤川球児、久保田智之の「JFK」が健在であり、岡田いわく《絶対的エースはいなくても、岩田稔ら若い投手たちの台頭もあり、バランスのいいチームで挑むことができた》(『ベースボールマガジン』別冊薫風号、2022年7月)。
開幕5連勝を決めた阪神はそのまま首位を独走、交流戦も優勝したソフトバンクと勝率で並び、難なくクリアした。これに対し巨人は、高橋由伸や二岡智宏が故障で離脱するなど主力打者が総崩れとなり、球団史上初の開幕5連敗でのスタートであった。7月に入って中日に替わり2位に浮上した巨人だが、阪神は8日の直接対決で勝って13ゲーム差をつけ、22日には早くも優勝マジック46を点灯させる。
岡田監督が激怒した「優勝する」事件
こうなると優勝間違いなし、というムードがチームに漂うのは当然であった。しかし、岡田はそれを許さなかった。交流戦中に記者から優勝について訊かれても煙に巻いたという話はすでに書いた。岡田はかなり神経をとがらせていたようだ。
7月中旬、あるコーチが番記者との会話のなかで「優勝する」という言葉を簡単に口にしていたことを知り、激怒する。そのコーチには直接、気を緩めるな、引き締めろと怒鳴ったという。もっとも、岡田もこの時点では内心、絶対に優勝できると信じて疑わなかった。
「Vやねん」もあった
歯車が狂い始めたのは、8月の北京オリンピックで藤川、新井、矢野燿大(当時・輝弘)が日本代表に選ばれたころからだった。
じつはこのとき新井は腰を痛めており、五輪に送り出すにあたっては岡田監督がトレーナーを同行させ、けっして無理はしないよう注意を促していたという。だが、帰国した新井は骨折が判明、離脱を余儀なくされる。結局、8月に阪神は9勝11敗で負け越す。その間、巨人が12勝7敗で猛追し、9月に入ってもその勢いは止まらなかった。
追いかけてくる巨人の迫力に、岡田は恐怖を覚え始める。傍目から見ればたしかに巨人にはまだかなり差をつけていた。気の早いスポーツ新聞社が『Vやねん!タイガース 08激闘セ・リーグ優勝目前号』と題するムックを出したのもこのころである(このシーズン後、ネット上では「Vやねん」がプロ野球における死亡フラグを示すジャーゴンとなった)。
ファンの野次に「誰に向かって言っているんや!」
9月9日からの甲子園でのヤクルトとの3連戦ではすべてサヨナラ勝ちし、ファンを沸かせた。とりわけ劇的だったのは9月11日の試合である。この日、岡田は二軍にいた今岡誠を3カ月半ぶりに引き上げ、3番・三塁でスタメン入りさせた。今岡はちょうど誕生日ということもあり、岡田にはひらめくものがあったという。これが吉と出て、1回の初打席でいきなり2ランを放ち、最後も今岡が四球を選んでサヨナラ勝ちとなったのだ。
だが、岡田は心の底からは喜べなかった。冷静に試合を分析すれば、1回と9回しか点が入らない。走者を出すのは2死から。勢いに乗り、上昇するような内容ではなかった。岡田は長いつきあいの記者に、「こんなんで喜んでたらアカン。こんなん、ウチの野球やないからな」と本音を漏らしたという。
巨人には3ゲーム差まで縮められると、9月19日からの東京ドームでの直接対決で連敗し、ついに首位に並ばれてしまった。巨人はこの3連戦を含め、9月24日まで引き分けを挟んで12連勝し、ラストスパートをかける。
このころの岡田は、チームの状態に加え、私生活で長年飼っていた愛犬が亡くなったこともあり、かなり苛立っていたようだ。10月4日の神宮球場でのヤクルト戦、引き分けに終わった試合終了後、三塁側フェンスに沿ってクラブハウスに引き上げるとき、一人の阪神ファンから非難の声を浴びせかけられる。そこで飛び出した「おまえは選手の信頼を失ってんだよ!」との言葉に、岡田は我慢ができず、つい、フェンス越しに「ここに降りてこい。誰に向かって言っているんや!」とやり返してしまい、大騒ぎとなる一幕もあった。このときの自身について岡田は《そんなに激しく怒らなくても……。自分でそう思ったけど、やはり焦りやいら立ちやったんやろな》と、のちに省みている(『ベースボールマガジン』別冊薫風号)。
「だから今季限りで監督を辞める」
10月8日、阪神は巨人との最終対決で敗れ、とうとう首位から陥落し、巨人にマジック2が点灯した。
巨人は10月10日のヤクルト戦に勝ってマジックを1に減らすと、その日、同時刻に行われていた横浜との試合に阪神が敗れ、優勝が決まる。巨人にとっては、1996年に広島との最大11.5ゲーム差をひっくり返した「メイクドラマ」以上の大逆転劇となり、「メイクレジェンド」とも称されたが、阪神からすれば悪夢以外の何物でもなかった。
岡田はその夜、横浜の宿舎でコーチに集合をかけると辞意を伝えた。すでに9月の時点で優勝できなかったら監督を辞めると決めていたのである。コーチたちにも、球団からも慰留されたが、気持ちは変わらなかった。翌日、選手にも「みんな、よく戦ってくれた。でも優勝は逃した。この責任は私にある。だから今季限りで監督を辞める。ここまでみんな、ありがとう」と伝えた。最後の采配となったクライマックスシリーズでは、中日と3戦目までもつれ込んだが、藤川がタイロン・ウッズに打たれ、岡田は1期目の阪神監督を終える。
「優勝旅行はハワイがいいです」のワナ
後半の失速の要因には、北京五輪中の主力の不在、新井の離脱とアクシデントが続いたことも当然あるのだろう。そればかりでなく、2005年の優勝メンバーが2008年も主力だったことが、かえって油断を生んだとの見方もある。岡田は今年のインタビューで、《あの年はシーズン中やのに早く優勝旅行の行き先を決めようとなって、選手のなかでは『僕らはハワイがいいです』って話になっとったらしい》と話している(『Number』1074号、2023年6月22日発行)。のちに「優勝」の語を封印した理由がここからもうかがえる。
2005年の優勝メンバーの一人である鳥谷敬も、《やっぱり「追われる立場」を経験したことがない選手ばかりだったので、8月、9月になって巨人と対戦してもほとんど勝てない状態になってしまいました。05年の優勝を知っているメンバーが多かったので、優勝の良さを知っていることが逆にプレッシャーになったのかなという気がしますね》と振り返っている(『ベースボールマガジン』別冊薫風号)。
敗因は色々と考えられたとはいえ、それでもすべての責任は最終的な判断を下した監督にある。岡田はそう考え、辞任を決意したのだった。
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