千両役者は、やはりこの男だった。いや、正確には最後の一打を放ったのは森下翔太だ。だが、九回の劇的サヨナラ劇を演出したのは、76日ぶりに1軍の舞台へ帰ってきた近本光司だった。
2026年7月11日、甲子園。阪神はヤクルトを2-1で破り、今季3度目のサヨナラ勝ち。ヤクルト戦の連敗を3で止め、単独首位を守った。その勝利の中心にいたのが、4月26日の広島戦で死球を受け、左手首を骨折して戦列を離れていた近本だった。
試合前、「1番・中堅」で名前がコールされると、甲子園を大歓声が包んだ。待ちわびた虎党の思いが、背番号5へ一気に注がれた。
ただ、復帰戦は決して順風満帆ではなかった。
初回の第1打席は一ゴロ。三回1死二塁で迎えた第2打席では右飛に倒れたが、二塁走者の梅野隆太郎は三塁へ進んだ。六回の第3打席は空振り三振。3打席を終えて無安打だった。
それでも、近本がいる。
その事実だけで、この日の甲子園にはこれまでとは違う空気があった。藤川球児監督も試合後、近本について「戻ってきて分かる素晴らしい選手」と表現した。
そして、その存在感が最も色濃く表れたのが、1-1の九回だった。
先頭の髙寺望夢が死球で出塁。しかし、近本の打席中に二盗を試みてアウトとなった。阪神はリクエストを要求したものの、判定は変わらず。無死一塁が一死走者なしとなった。
流れが途切れてもおかしくない場面だった。
だが、近本がいた。
ヤクルトのリランソから鮮やかに中前へ運んだ。第4打席、4打数目。待望の復帰後初安打だった。
一度は走者が消えた甲子園が、再び大歓声に包まれた。
左手首骨折から76日ぶりの1軍復帰。最初の3打席は、一ゴロ、右飛、空振り三振。それでも最後の打席で、勝負の流れを自らつかんだ。
近本は「ファンの声援がすごく力になる」と振り返った。
ただ一本の安打だった。しかし、それは単なる「4打数1安打」ではない。九回一死から放った中前打が、中野拓夢へ、森下へとつながり、最後は自身がサヨナラのホームを踏んだ。
不動の切り込み隊長が帰ってきたその日に、その足で勝利のホームへ帰ってきた。
これほど劇的な復帰戦もない。
佐藤輝が一振りで先制!伊藤将は7回3安打無失点
近本の復帰に沸いた甲子園を、最初に爆発させたのは4番・佐藤輝明だった。
0-0の二回。先頭で打席に立つと、ヤクルト先発・松本健吾の初球を一閃。打球は浜風をものともせず右翼スタンドへ飛び込んだ。
9試合、37打席ぶり。7月初アーチとなる17号先制ソロ。甲子園では6月3日の西武戦以来38日ぶりの一発だった。
前日のヤクルト戦では守備のミスを喫し、「しっかり反省して、また明日も頑張る。ただそれだけです」と話していた佐藤輝。その翌日、今度は自らのバットで先制点をたたき出した。
しかし、阪神打線はその後、松本健をなかなか攻略できない。
三回、先頭の梅野がフェンス直撃の中越え二塁打を放った。だが、伊藤将司がスリーバント失敗で三振。近本の右飛で梅野は三塁へ進んだものの、中野が空振り三振に倒れた。
四回は森下が遊ゴロ、佐藤輝が空振り三振、大山悠輔が中飛。五回も前川右京が遊飛、熊谷敬宥が三ゴロ、梅野が左飛で三者凡退。六回には伊藤将が空振り三振、近本も空振り三振、中野が右飛に終わった。
七回、先頭の森下が左前打で出塁したものの、続く佐藤輝が遊撃への併殺打。大山も捕邪飛に倒れた。
松本健に対して7回でわずか3安打。佐藤輝の一発以外では、梅野の二塁打と森下の左前打だけだった。
それでも1-0で試合を進められたのは、1カ月ぶりの先発マウンドに立った伊藤将の快投があったからだ。
初回、先頭の内山壮真に左翼線二塁打を許した。さらに2死三塁からサンタナに四球を与え、一、三塁。それでも増田珠を右飛に仕留め、無失点で立ち上がった。
二回は赤羽由紘に四球を与えたものの、長岡秀樹を見逃し三振。続く中村悠平を遊撃への併殺打に打ち取った。
三、四回は三者凡退。五回には1死から長岡に右翼線二塁打を浴びたが、中村悠を投ゴロ、松本健を見逃し三振に斬った。
そして六回。先頭の内山に中前打を許した直後、伊藤将は投球以外でも甲子園を沸かせた。
岩田幸宏が一塁線へ放った高いバウンドのゴロ。打球は直前でイレギュラーしたが、伊藤将は瞬時にグラブでの捕球を諦め、右手で素手キャッチ。体を回転させながら一塁へ送り、俊足の岩田を間一髪でアウトにした。
このプレーに、サンテレビで解説を務めていた元阪神の原口文仁氏も「センスの良さですね」と称賛した。
なおも2死三塁となったが、4番サンタナを見逃し三振。七回も増田を二ゴロ、赤羽を空振り三振、長岡を一ゴロと三者凡退に仕留めた。
7回92球、被安打3、6奪三振、2四球、無失点。
「梅野さんと話し合いながら、丁寧に投げることができました」
1カ月ぶりの先発とは思えない安定感だった。1-0のまま降板し、昨年7月13日のヤクルト戦以来、363日ぶりとなる勝利投手の権利を持ってマウンドを譲った。
その白星は最後に消えることになる。
だが、この夜の勝利を語る上で、伊藤将の7イニングを外すことはできない。
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無死満塁から163キロ!工藤が絶体絶命の危機で「覚醒」
この試合最大のピンチは、八回だった。
伊藤将からバトンを受けた2番手・工藤泰成。だが、先頭の中村悠に中前打を浴びる。続く代打・塩見泰隆の三塁への打球を佐藤輝がファンブルし、無死一、二塁。さらに1番・内山に四球を与え、無死満塁となった。
1点差。アウトは一つもない。
一打同点どころか、逆転まであり得る絶体絶命の場面だった。
ここから、24歳の剛腕が豹変した。
まず岩田を投ゴロに仕留め、三塁走者を封じた。1死満塁。続くセデーニョにはワンバウンドする変化球を振らせ、空振り三振。2死満塁までこぎ着けた。
そして迎えた4番・サンタナ。
初球。甲子園のスコアボードに「163」が表示された。
どよめきが起きた。
これまでの自己最速161キロを一気に2キロ更新。2021年にロベルト・スアレスが計測した球団最速記録に並び、阪神の日本人投手では史上最速となる163キロだった。
160キロ台を連発し、最後は高めの161キロでサンタナから空振り三振。無死満塁を無失点で切り抜けると、工藤はマウンド上で雄たけびを上げた。
1回24球、1安打、2奪三振、1四球、無失点。
数字だけでも圧巻だが、重要なのはその状況だった。1点差の八回、無死満塁。そこから1点も与えなかった。
藤川監督は試合後、「いわゆる覚醒というか。ゾワゾワした」と振り返った。
現役時代、何度も甲子園の終盤を任されてきた指揮官だからこそ、感じるものがあったのだろう。もちろん、その胸の内を勝手に推測することはできない。ただ、藤川監督自身が「ゾワゾワした」と表現するほどの投球だったことは間違いない。
工藤が作った熱狂は、しかし、九回に一度消えかける。
1-0の九回、3番手としてドリスが登板。先頭の増田に右前打を許すと、代走に山野辺翔が送られた。続く赤羽にも詰まりながら右前へ運ばれ、無死一、三塁。
長岡の遊ゴロは併殺打となったものの、その間に三塁走者・山野辺が生還した。
1-1。
伊藤将の363日ぶりの白星は、あとアウト三つで消えた。
甲子園にため息が広がる。
それでもドリスは後続のモンテルを空振り三振に仕留め、勝ち越しは許さなかった。
一度は勝利を逃しかけた阪神。だが、この日の虎には、最後にもう一つのドラマが残されていた。
近本が打った!中野がつないだ!森下が決めた!
九回裏。1-1。
ヤクルトのマウンドにはリランソが上がった。
先頭は、八回から左翼の守備に入っていた髙寺。死球を受け、無死一塁となった。
ここで打席には近本。
リランソは一塁へ何度もけん制を入れた。その中で髙寺が二盗を試みたがアウト。阪神はリクエストを要求したものの、判定は変わらなかった。
一死走者なし。
せっかくの走者が消えた。
だが、近本は打った。
中前打。
76日ぶりの1軍復帰戦、その第4打席でようやく飛び出した安打だった。
復帰初戦での一本。しかも、同点の九回、一死走者なしからの出塁だ。
甲子園の空気が変わった。
続く2番・中野の打席では、リランソが一塁へ繰り返しけん制。近本の足を強く警戒した。それでも中野は冷静に四球を選び、一死一、二塁。
打席には3番・森下。
この日、第1打席は左飛、第2打席は遊ゴロだったが、七回の第3打席で左前打を放っている。
そして試合後、森下はこの最終打席について言った。
「決めてやるという思いでした」
フルカウントからの一球を捉えた。
打球は左前へ落ちた。
左翼手・山野辺が後逸。その間に二塁走者の近本が一気にホームへ駆け込んだ。
2-1。
サヨナラ。
4万2641人が詰めかけた甲子園が揺れた。
公式記録は森下の左前打と山野辺の失策。したがって森下に打点はつかない。だが、森下が放った一打がサヨナラ勝ちを呼び込んだことに変わりはない。
そして、ホームを踏んだのは近本だった。
4月26日に死球を受けて左手首を骨折。長い離脱を経て、76日ぶりに戻ってきた不動の1番打者。
第1打席は一ゴロ、第2打席は右飛、第3打席は空振り三振。
それでも、最も重要な九回の第4打席で中前打を放った。
森下は試合後、近本の存在について「チカさんが来たことで勢いが変わる」と語った。
それは決して数字だけの話ではない。
この日の阪神は28打数5安打。得点は佐藤輝のソロ本塁打と、九回のサヨナラによる2点だけだった。近本自身も4打数1安打である。
それでも、その一本が勝利への扉を開いた。
近本が出て、中野がつなぎ、森下が打つ。
開幕当初の上位打線が復活したその日に、3人のつながりで試合を決めた。
藤川監督は試合後、「1-0で最後までゲームが行われるような展開に持っていきたいんですけど。難しいゲームですけど、みんな頑張ってくれましたね」と選手たちをねぎらった。
確かに、簡単な勝利ではなかった。
佐藤輝の17号で先制し、伊藤将が7回無失点。工藤は無死満塁を切り抜け、163キロを計測した。それでも九回に追いつかれた。
一度は勝利がこぼれかけた。
その直後だった。
帰ってきた近本が打った。
中野がつないだ。
森下が振り抜いた。
阪神は今季3度目のサヨナラ勝ちでヤクルト戦の連敗を3で止め、42勝35敗1分け。単独首位を守った。
ヒーローは一人ではない。
先制弾を放った佐藤輝。7回無失点の伊藤将。163キロで無死満塁を封じた工藤。そして最後の一打を放った森下。
だが、この日の物語の始まりと終わりには、背番号5がいた。
「1番・センター、近本」
その名前が再び甲子園に響いた夜、阪神の切り込み隊長は最後に自らホームを踏み、劇的な勝利を完成させた。
