-久慈照嘉回顧録-1992年シーズンの思い出

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久慈氏がルーキーだった92年シーズン、亀新フィーバーで盛り上がり惜しくもペナント制覇を逃したタイガースは、ここから暗黒時代へ突入する事になりました。この年に優勝できていれば、もしかすると歴史は違っていたかもしれませんね。

「優勝していたら…」阪神暗黒時代の“前夜” 痛恨のトレード…OBが回顧する長期低迷
Full-Countより)

久慈照嘉氏はドラ2で阪神入団…春季キャンプで任された“起床係”

 ドラフト2位で日本石油(現ENEOS)から阪神入りした久慈照嘉氏は1992年のプロ1年目から堅い守備と巧打で活躍し、新人王に輝いた。この年の阪神は巨人と同率2位に終わったが、亀山努と新庄剛志の“亀新フィーバー”で大いに盛り上がり、ヤクルトと優勝争いを繰り広げた。そんな中で久慈氏は結果を出したわけだが、「最初は練習についていくのがやっとでした」と振り返る。キャンプでの“初仕事”は「朝、先輩の部屋を回って起こしにいくことだった」という。

 阪神での第1歩となる甲子園球場での自主トレ。「1985年の阪神日本一をテレビで見ていたので、そうそうたるメンバーに『ウワッ岡田だ、真弓だ、平田だ』って思いましたね。僕ら新人はゼッケンをつけられてすごい緊張しました」と久慈氏は懐かしそうに話した。春季キャンプは高知・安芸市で1軍スタート。「新人は僕と弓長(起浩)さん(ドラフト3位投手)だけ。宿舎も弓長さんと2人部屋でした」。

 最初のキャンプで久慈氏は「朝7時から体操があるので、6時半ころに先輩の部屋に起こしに行っていました」と明かす。先輩の部屋をノックしてまわって「起床です」と声で伝える“仕事”だった。「1年目はみんなやるんだって言われて……。社会人でもそんなことはしたことがなかったので、衝撃でしたね。プロはこんなことをするんだって思いました」。もっとも、それを行っていたのは、そのキャンプの途中までだったという。

「岡田(彰布)さんだったか、真弓(明信)さんだったかが『もうお前、そんなことをしなくていいよ。誰に言われてそんなことをやっているんだ。目覚まし時計があるんだから、自分で起きるよ』って言ってくれたんです。それでやらなくてよくなりました」。大先輩のおかげで何とか“免除”になったわけだが、肝心のグラウンドでの“闘い”も最初の頃は大変だったという。「練習についていくのがやっとでしたからね」。

 久慈氏は「ショートについたら平田(勝男)さんと高橋(慶彦)さんと僕ですよ。すごい2人じゃないですか」と、その時の状況を強調した。同じポジションの2人の先輩は久慈氏にとって憧れの人。10歳以上離れている先輩に必死に食らいついていく日々だった。ただ、それを続けていくうちに「何となくなんですけど、守備だけだったら『あれッ、イケるんじゃないかな』って思った」というから、やはり守備力はもともとルーキーのレベルではなかったのかもしれない。

1年目に121試合出場で新人王…新庄剛志を5票上回った

 一方で打撃には「無茶苦茶、苦労しました」と話す。「(高校、社会人の)7年間、金属バットでしたから、木製バットに慣れるのはかなり時間がかかりました。バットもどれが自分に合うのか、軽いバットを振ったらいいのかと思ったらそうでもないし、重いバットは体力がないから振り切れないし、いろいろ迷いましたね。バントもそれまでしたことがなかったから、プロに入ってから、けっこう練習しましたよ」。

 1992年4月4日の開幕・ヤクルト戦(神宮)で久慈氏は「2番・遊撃」でスタメン出場を果たした。「最初の打席が送りバントだったのは覚えています」。開幕2戦目(4月5日)にはヤクルト・岡林洋一投手からプロ初安打となる右前打を放ち、フル出場した。戸惑いながらスタートしたキャンプ、オープン戦を乗り越えて、その後も久慈氏は結果を出していった。

「ドラフト1位の萩原(誠内野手、大阪桐蔭)は高卒で、2軍。僕は2位ですし、一応即戦力と見られていたわけですから、それなりの責任というか、上位で獲ってもらったし、何とか期待に応えたいというのはありました。中村(勝広)監督には『とにかく守れ、それでいい。打つ方は期待していないから。打つ方はそのうちどうにかなる』と言われていました。ならんかったですけど」と久慈氏は笑いながら話したが、実際、守備での貢献は光った。

 この年の阪神は亀山、新庄の“亀新フィーバー”で盛り上がり、2位に終わったものの最後まで優勝争いを繰り広げた。久慈氏の安定した守備力も原動力のひとつとなり、同僚の新庄を5票上回って新人王にも輝いた。1年目の成績は121試合に出場し、打率.245、0本塁打、21打点。「新人王は僕の力というより、規定打席に立たせてもらったから。数字は全然よくなかったけど、守りの部分を評価されたのかなって思っています」。

 とはいえ優勝を逃したのは今でも悔しくてたまらない。「シーズンの最後の最後でひとつ、ふたつ勝てば、ってところで勝てなかったんですからね。死力を尽くしたけど、打てなくて負けたって言われた。あの年は投手力のチームだったのでね。だから(トレードで)野田(浩司)さんを(オリックスに)出して松永(浩美)さんを獲ったんでしょうけど……」。阪神はそこから“暗黒時代”に突入。久慈氏は「あの年に優勝していたら変わっていたんでしょうね」とつぶやいた。

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